「みんな違って、みんな駄目」
という言葉が好きです。
「みんな違って、みんないい」
は、元気な人にはいいですが、落ち込んでる人にはプレッシャーになるので。


私もこれには経験があります。

良くも悪くも真面目な私は、「いい人」でなければならないという
プレッシャーを勝手に感じてしまいます。

今ではそういう自分に気づいているし、
自分がそれを非常に気にする性格であることも知っているので、
必要以上のプレッシャーを感じていることに気づくことができます。

でも学生時代は違いました。
自分は苦手なことがあってはならない、
隣の人より上手でなければならない、
人格的に優れていなければならない、
うまくいかなくても不機嫌になってはいけない……
そういう思いが常にありました。

そのくせ本質はぐうたらでめんどくさがりなので、
うまくいかないと何もかも放り出してふてくされてました。

そんな自分が許せない……の繰り返しです。

周囲が求める人物像(と勝手にどこかで思い込まされていたもの)と、
本来の性質が乖離しているんですね。


友人にクズと言われてほっとした

あるとき仲のいい友人と話が盛り上がった流れで
「いよこって意外とクズやんな!」
と言われました。
そして
「お互いにクズやな!」
と言って笑ったことがありました。
このとき、すっと気持ちが軽くなったんです。

これ、よほど親しい人や尊敬する人以外に言われたら普通に泣くと思うんですが、
親友に言われたのですごく助かったんですね。
「あ、自分はクズでいいんだ」
って受け入れられたというか。

大好きな友達もクズで、私もクズで、
それをこの人は受け入れてくれてるからまぁいっか、みたいな。
友達との待ち合わせで多少遅れてしまっても、
死にたくなるほど思いつめなくてもいいんだ、みたいな。
良い意味での諦めを最初に身につけられたのはこのときでした。


いい子でなければならないプレッシャー

小さい頃からすごいね、さすがだね、えらいね、
とほめられることを目的に動くところがありました。
少しでも情けない姿を見せると呆れられると思い込んでいたし、
それに対する恐怖心が「いい子」になるための原動力でした。
正確には恐怖心ばかりではないですが、生活に染み付いた意識だったことは確かです。

そしてそれは自己肯定間を育むことを阻害し、後にSADや抑うつを生むことになります。

「みんな違って、みんな良い」といわれると、
「いい人」でなければならないという意識を刷り込まれるような気がします。
「みんな違って、みんな駄目」と言われると、
駄目でもいいんだ、いい子でなければならないと思う必要はないんだ、と思えます。

もしかしたら駄目でいいと言われて調子に乗る馬鹿という、
「大人たち」が恐れる解釈をする人間もいるかもしれませんね。

でもどうして生来真面目で、「いい人」であろうとするあまり
うつになるような人に目を向けないのでしょうか。
これはあまりに社会の損失ではありませんか?

言葉は使いどころではあるというのは前提ですが、
こういう言葉が必要な人もいるという認識が広まるといいですね。